★また握りしめとるがな!
無性にイライラしていた。
自我が数え上げる理由なんて山ほどあるけど。
本質がイライラしているわけはないので、その現象が現れていているには何かカラクリがあるはずだ…と思って。
「このイライラする要因はなんですか?」と問うてみた。
<具体的に正直に書いてみなさい>
そのイライラすることについて、原因を書き出してみた。
あなたはいつもこうでしょ、だからああなのよ、それにこれもあれもこんなじゃないの、どうしてそんななの?だったらこれくらいのことはしても当然よね…
って。
そして、自分の自我から離れてその文章を読んでみた。
おおおお!
これはまさしく、私が私にダメ出しをしている内容そのものではないか。
書いていたときの「自分が相手を見る立ち位置」から、「誰かが私を見る立ち位置」の視点に置き換えて、文章を読む。
すると不思議なことに、自分にはそれができてないんじゃないか…と無意識に不安に思ったり卑下している部分、あるいは変にできもしないのに傲慢に思い込んでいる部分、あまり価値がないと思っていたところに実は価値を見出している部分…
そんなものが見えてきた。
なるほど、だからなぜかわからないけど毎回イライラするんだ。
正直な鏡だったんだ。
そういう何かカラクリがあるから、イヤだと思いつつ手放せなかったんだ。
ならば、それにイライラを感じなくなったとすれば、自分自身の不安感や自己卑下・傲慢さが手放せているということかもな。
まぁ別に持っていたって問題はないけども。
それを持ってるんだな~と気付かせてもらったってことだな。
まだ貨幣経済社会の中に身を置いているので、そこにまかり通っている価値観にどうしても合わせてしまう気持ちをまだ持ち合わせているんですよ。
その価値観、オカシクないか?と思いながらも、その価値観の枠の中にスッポリ嵌り込んでしまっているということに改めて向き合わさせられました。
同じく今日、「新人基礎研修」という名の研修を受けました。
新人が受ける研修をてんちょー自ら受けて初心に戻ってみなさい、という趣旨の元。
お決まりのお時儀の角度は45度、みたいな実技もあったりしつつ。
そして最後にこの研修を受けて現場に何を持ち帰るのか、コメントを書けと言われたのだけど。
「自分が楽しい気持ちでいることがオキャクサマにも楽しんでいただけると感じているウンヌン」と書いたわけです。
これが私の初心なわけです。
だけども現場では貨幣経済的な指示命令が来て、ウンザリ…という伝達事項を「やりなさい」的に申しつけなければならない役割を果たしていたりするわけです。
要するに、そのギャップを見て見ぬフリすることが往々にしてあるわけです。
私は「やりなさい」という言い方は極力したくない。
「どうやったら楽しくソレができるのか?」と知恵を出し合いたい。
だけど、ここ最近はキューッ!というくらいに締め付けが厳しい。
なのでそのままキューッ!と言いながら苦し紛れに細かいことにイライラし始める。
誰かに対して「(その枠組みの中から)どうしてはみ出るのか!」とイライラを募らせている自分を発見するということは、自分がその枠組みの中に入りたくない!という思いを持っていることにちゃんと気付けよ、っていうことだったんだね。
枠組みの中からはみ出たものを見ている視点と、その枠組み自体から離れて入ってるものも出ているものも含めて全体を見ている視点とでは、そこに見えてくる情景はかなり違ったものになるよね。
その時点で、枠組みの中にいようと外にいようと関係ない。
枠組み自体に絡まってなければ、それがあってもなくても問題はないのだから。
枠組みがあると仮定するのは自分。ないと感じるのも自分、ってことだからね。
言葉にするとなんとも掴みどころがない話になってしまったけども、以前に「握りしめるな!」という記事に書いたとおり、自分に制限を加えてくるもの・想いを握りしめるな、ってことをまた再び、やっちまったぜぃ…( ̄∀ ̄;)ということですかな。
あ~ぁ(笑)
まぁ何にせよ、気付かせてくれてありがとう。
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