★意味などない、そして必要もない
職場のトイレでホ~っと呆けているときに、久しぶりに黄色のあみあみオーラを、しかもかなり網目の細かい凝縮したオーラを眺めていたmieですこんばわー。
そんでもって今もゴロンと寝転んでホ~っと呆けていたら、濃い黄色のあみあみオーラが壁全体にいらっさいまして、ふと思ったのですが、黄色あみあみは湿度の高い時に見えやすいの?
しょうこさん家に行ったときも外は雨だったしさー。
まぁあみあみ自体はずっとあるので、目の具合だけなんだけどね。
いやそれはさておき。
ここのところ(って言っても4日目ですが)、毎日朝晩ちゃんと忠実に瞑想タイムを過ごしているのですけども。
だって気持ちよろしいんだもの。
今日も今日とて、とても深い瞑想状態になりました。
やっぱボブさんが言ってた通り、夕食前にするのがいいんだね。
おかげで瞑想後はやたら元気になってしまうのですが。
やっほーい♪てな具合で。
それでかそれでじゃないのかわからないけども、ホ~っと呆けているときに、黄金の玉…っていうイメージが来ると、それだけで瞑想効果なのかとても気持ちよくなって癒されてる感がします。
今日は上司が来たり上司の上司が来たりで休憩が休憩ではない感じで過ごしたので、先のトイレで呆けていた時は少し疲れていたわけですね。
そんで、呆けて黄金の玉…なイメージが来たら元気回復したわけですよ。
思い込み?(笑)
そうかもしれない。でもいいんじゃない?元気回復するんだしw
そんな感じで呆けているせいか(笑)、何も思考がない状態が続くから受信状態が良好になっていて、帰る道々ハイヤーさんがつぶやくわけです。
人生に意味などない
いや人生だけではなく、すべてのことに意味などない
意味があると思っているのは人間の頭の中だけだ
木の葉が落ちるのにどんな意味がある?
髪の毛が抜けおちるのにどんな意味がある?
人が死ぬのにどんな意味がある?
それにどんな違いがあるのか?
たとえ死んだ(肉体が朽ちた)としても何を恐れる必要がある?
必要なものなど何もない
ただ起こるだけだ
何かの結果として起こることに意味を付け加える必要はない
その意味に縛られるのは愚かしいことだ
ただあなたは安心していなさい
意味もなく必要もないのだから
恐れることも嘆くことも
ほんとだね~そうだね~と思いながら歩いていたワタクシです。
そんで安心感がただ広がるだけで、たとえ明日死んだとしても、あ~そうですか~と感じるだけだろうな、という確信があったりするわけです。
本当に死ぬことは全然怖くはなくて。
ただその死に直面するときのシチュエーションは、出来るだけ痛くないようにお願いします…くらいなもんで(笑)
痛いのキライだからww
たとえばちまたで囁かれているように、自然淘汰の対象となって地球上に存在していられなくなったとしても、その後の転生先は同じ3次元惑星なわけで、そしたら今と何が違うのか?という人生だったりするわけだし。
そんでアセンションした地球とともに過ごすとなったとしても、それはそこにある生活をすることになるわけだし。
どこに行っても何があっても、その時にはそれが現実で「今」でそれ以外のことは起こり得ないわけだし。
どうなるかわからない現時点で、あーなったらどうしようこーなったらどうしようと思い巡らせてもまったくもって意味がないってことだよね。
なるようになるし、なったらなったでその現実を体験するだけ。
それ以外になりようがないのだから。
でも私の自我は、「でもさ?波平さんのおじさんの毛が抜けるのは一大事じゃない?3本と1本の差しかないんだから、2本抜けたらどっちが波平さんかわからなくなるっていう事態が発生したりしないわけ?」
なんてとんでもなく意味のないことを考えていたりするわけです。
あ~やっぱりなぁんにも意味なんてないんだ!(爆)
(そぅいぅ終わり方ですか今日は…)
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コメント
みえちんと同じ感覚かどうかはわからないけど、ワタシも自分の先がどうあれ、なんていうかどうでもいいというか。
全部丸投げのお任せというか。
あれこれの話は、全部他人の夢話というかw
だって、ねえ。
どうあれ完璧な場所で完璧なあり方をしているのだもの。
今のワタシはめっちゃ満足だわ♪
むふ~♪
投稿: カノコ | 2011年5月11日 (水) 00時40分
自分が何者であるか、どう在りたいか、これでいいのかと自問自答を繰り返してきたわけですが、まあ裏を返せば大好きな自分を大好きでいられるようにと愛から来た行動だったりしたわけで(笑)
意味のないことに意味を見出だす作業を今まではやりたかったらしいから仕方ない(笑)
自分がどうありたいかではなく、どう見られたいかに徹しすぎたように思います。
後者は偽りの自分だから我慢にも限界がある。
それが今回の出来事、ただそれだけなのでした。
人のためじゃなく自分のためってそういうことなんだなぁ〜って、気づくの遅すぎます?って、気づいても意味ないんだろうけどさ(笑)フフフ
投稿: みーくん | 2011年5月11日 (水) 01時17分
お久しぶりです♪
死、というものに対するスタンス、すごいわかる!
なるべく痛いのはヤダーっていうのも(笑)
こないだ仕事関係の大御所さんの葬儀に行った時も、晴れ晴れしい門出のお見送り、という感覚しかなかったし。
投稿: ☆TSU☆ | 2011年5月11日 (水) 08時42分
カノコさん♪
そうなの、どうあってもそれでイイんだもんね。
そこに人間の考え付くような意味を付けたって、無意味だな~って感じ。
そんでこの先どこにいてもどうなっていても、その時にはそれがすべてなんだし、今からどうしようこうしようって思ったって、それこそ本当に無意味だし。
今、どんだけ楽しくてムフムフしてるかだよね。
投稿: mie | 2011年5月11日 (水) 23時07分
みーくんさん♪
「どう在りたいか」は自分の視点で自分を見据えていくことだけど、「これでいいのか」は気をつけないと他者から見た自分は「これでいいのか?」になりかねない。
これでいいんだよ。
これしか今の自分は表現できないのなら、他の表現を出来ないのだから、これでいいんだよ。
自分の持ち得ないものを求めるから「苦」を産む。
まず自分はこれでいいと思えたら、それから先にあれもしたいこれもしたいを思っていいと思うんだ。
今を否定した状態で次を探しても、たぶん満足はできないからね。
「人のため」は聞こえはいいけど、自分を裏切っている行為だからね♪
投稿: mie | 2011年5月11日 (水) 23時13分
☆TSU☆どの♪
そうなのよね、お葬式ってお祝いのセレモニーだよね~。
肉体的に会えなくなることで寂しい想いを持つ人もいるだろうけど、志半ばで無念だろう…なんてコメントを聞いたりすると、それって生き残ってる側の視点だよねって感じちゃう(笑)
死んだって、死んだときが「今」になるんだし、何が変わるんだ?って思う。
それは、無になり得ないってことをどこかで体感的に知っているからなのかな。
投稿: mie | 2011年5月11日 (水) 23時25分